幻の後継機「烈風」の実力

零戦の活躍もあって、東南アジアで連戦連勝を重ねていた1942年、海軍は零戦の後継機として十七試艦上戦闘機の開発を零戦の産みの親、三菱に開発を命じました。その内容は速力と上昇力の大幅な強化に加え、零戦と同等以上の空戦能力を求められた難しい要求でした。この要求書を作成した軍令部は、敵に打ち勝つためには常に一歩先の航空機を開発する必要があり、速力640km/hは最優先であるとしましたが、現場では今日まで敵に勝ってきたのは、零戦の空戦能力のおかげであるから、空戦第一であるという意見があり、結局はその両方を盛り込んだ計画書になりました。
また防弾設備の充実も要求され、機体はどんどん重く大きくなるためこれまでの発動機ではなく、零戦の二倍以上の出力を持った発動機を選定しました。
しかし発動機の不調や機体そのものの改修に加え、当時一足早く正式採用された局地戦闘機雷電」の修理や改修、一式陸上攻撃機の生産に追われた三菱は、開発開始から約二年後ようやく烈風の試作機を完成させました。
しかしその試作機は速力は零戦に劣り、機体の重量のせいか上昇力も貧弱で、計画書には程遠いものになりました。これは発動機の不調が原因で、額面の半分程度しか発揮されていないことがわかりました。
そこでさらに高出力の発動機に換装して試作機の開発を行おうとしましたが、この半年前に紫電改が初飛行で好成績を残し、艦上戦闘機用の開発も目処がたっていることから、軍令部の烈風への興味は急激に冷めていきました。
それでも新たな発動機に換装した烈風は、速力624km/h、空戦能力は零戦に劣らないという好成績をおさめ、見事量産化の承諾が降りました。しかし終戦間際の東海地震や爆撃により工場は壊滅、疎開先で生産は続けられたものの、量産機を一機生産したところで終戦となりました。

ここで疑問なのは、果たして烈風はアメリカ軍航空機と戦闘をして勝てるのか、というところだと思います。
この時期にアメリカ軍は、F6FヘルキャットF4Uコルセア、P-51マスタングといった航空機を実戦配備し、作戦に投入していました。今回は同じ艦上戦闘機のコルセア、ヘルキャットと比較してみたいと思います。
コルセアは烈風と同じ2000馬力級の発動機を装備した艦上戦闘機で、頑丈で堅牢な機体で最高速度 670km/hと烈風を40km/h程度上回っています。高速域の空戦能力は零戦をはるかに凌ぎましたが、低空域の空戦能力自体はそこまで高くなく、急降下から敵を襲う一撃離脱に長けた航空機でした。また武装も爆弾、ロケットなど様々なものを懸架可能で戦闘爆撃機としても活躍した艦上戦闘機です。
ヘルキャットも2000馬力級の発動機を装備した艦上戦闘機で、F4Fワイルドキャット同様堅牢な機体で最速度は630km/hと烈風と同等程度でした。高速域での急降下、最高速度、横転性能、上昇力全てが零戦に勝り、ワイルドキャットの敵を討つかのごとく零戦をことごとく撃墜しました。
以上の点と烈風の性能を考えると、戦争後期に奮戦していた紫電改のように、戦局を覆さないまでも勝るとも劣らない空戦は行える力は持っていたと考えられます。もちろん搭乗員の練度、機体数、天候や高度といった条件如何で結果は異なりますが、性能的には対等に戦える優秀な航空機であったようです。
このコルセアとヘルキャットは共に1942年に生産、実戦配備された航空機です。つまり零戦の後継機として相手の一歩先をいくために烈風の開発を開始した段階で、烈風と同等以上の艦上戦闘機アメリカは生産を開始していました。ということは、日本が想定した航空機の未来をアメリカはその4年も前に想定し、開発を開始していたことになります。また烈風の開発を命ぜられた2ヶ月後、空母三隻を失うミッドウェー海戦が起こります。もし開発がミッドウェーより遅かった場合、残りの空母の数から陸上戦闘機の紫電改を空母用に若干数生産することで後継機としていた可能性も十分あります。烈風は時代と戦局に翻弄されて日の目を見ることの出来なかったまさに幻の戦闘機でした。

いかがでしたか。烈風は戦績もなければ実戦配備すらされていませんでしたが、その知名度は低くありません。それは戦うことがなかったからこそ、もしかしたらアメリカ軍機をはるかに凌駕していたかもしれない、といった可能性と期待が未だに残っているからかもしれません。もしかしたら零戦の初陣のように一機も落とされず圧倒したかもしれませんし、一機も落とせず全滅していたかもしれませんし、同じくらいの被害で引き分け、ということになっていたかもしれません。しかしその結果は神様すらわからない永遠の疑問なのかもしれません。